創立

 戦前の金城団、戦後の金沢交響楽団をはじめとして、金沢にも古くからオーケストラ活動があり、それらは「石川県の弦の父」と呼ばれた、篠原虎一氏に育てられた人達が主体となっており、戦後の荒廃期にも市民に潤いを与えていた。
 また、大学オーケストラとしては、当時、すでに、東京・九州・東北各帝大が盛んな活動を行っており、金沢でも、金沢医科大学の洋楽部が音楽会を開いていた。
 そのような背景の中、昭和24年、全国大学令により、各地に新制大学が発足し、日本全国に新たな大学オーケストラが誕生した。金沢においても、第四高等学校、各師範学校、金沢医科大学を包括してできた金沢大学にオーケストラが生まれた。第1回入学生、棚倉昭美氏(S27卒、Vc)、川崎直由氏(S27卒、Ob)らと共に教育学部の佐々木宣男教授によって形成の基準が築かれた金沢大学管弦楽団である。メンバーは篠原氏の教えを受けた弦楽器奏者を中心とする16名により構成されていた。
 昭和25年10月7日、その第一回演奏会が開かれた。これは、オーケストラの演奏というより、むしろ音楽部の演奏会であり、ピアノ独奏、バリトン独奏も並ぶプログラムであった。管弦楽曲では、ベートーヴェンのロマンス長調、バッハの組曲第2番が演奏された。
 その後、主なメンバーの協議により、「金沢大学フィルハーモニー管弦楽団」を正式名称とした。この名称は第3回演奏会から登場し、演奏会の名称もこの時から定期演奏会(以後「定演」と称す。)となった。部員も40数名に増え、編成もトロンボーン、テューバはないにしても、ほぼ二管編成を完成させ、古典の名曲を演奏するのに充分なものとなった。そして、第3回定演(S27)には、金大フィル初のシンフォニーとしてシューベルト第8番「未完成」が演奏された。この頃はまだオーケストラによる生の演奏は珍しく、多くの聴衆を集め、好意を持って市民に迎えられた。
 金大フィルの創立は、単に大学オーケストラの誕生といった意味だけでなく、金沢交響楽団の衰退期には金沢唯一のオーケストラとしての存在の意義を持ち、金沢の音楽史において特筆すべき出来事であったといえよう。

オーケストラとして

 昭和27年からは指導者に安藤芳亮教官を迎え、演奏会も正統的なプログラムを取るようになり、次々と名曲」、大曲を手がけていくようになった。まず、その初めとして、第4回定演(S27)には、川口恒子女史(元金大フィル顧問)を迎えたシューマンのピアノ協奏曲、さらにベートーヴェン第5番の全曲演奏を行った。続く第5定演(S28)には、篠原氏の紹介によりNHK交響楽団のヴァイオリン奏者、斎藤裕氏を招き、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏、同夜のメンデルスゾーン第4番「イタリア」と共に素晴らしい演奏であり、理学部講堂一杯の聴衆に好評であったといわれる。以後、年2回の定演が行われるようになり、昭和37年の第22回、第23回まで続いた。(S36は第21回のみ)以後は年1回の定演になり現在に至っている。
 第20回定演までの特色として協奏曲がほぼ必ずプログラムに含まれていたことがあげられよう。珍しいものでは第9回定演における釣谷雅楽房女史を迎えての平井康三郎の箏協奏曲第1番がある。これは金大フィルにとって唯一の本格的な邦人作曲家の作品演奏である。他には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲(第7回(S29)、第14回(S32))モーツァルトの協奏曲(Cl.第10回(S30)、pf.第11回(S31)、Fl.第18回(S34))などがとりあげられている。独奏者は主に、団員や教育学部関係者の中から選ばれたようである。
 指揮者には、佐々木氏、安藤氏に加え、高泰夫氏(S29卒、Perc)が立ち、佐々木氏が愛媛大へ転職されたりした時には、当時、合唱団を指揮していた、現金沢市音楽協会会長である中村外治氏がその任にあった。また、バロック音楽を奏する際には、必ず篠原氏を招いていた。
 交響曲では、ベートーヴェン第1番、第2番、第5番、第6番「田園」、モーツァルトの後期交響曲など、ドイツ古典で飾られている。
 他大学との交流もしだいに盛んになり、昭和26年に北陸大学三県合同音楽祭が行われ、一時は、北信五県の音楽会にも発展した。現在では、北陸三県大学学生交歓芸術祭の管弦楽部門として行われている。また、昭和31年には名古屋大学管弦楽団、昭和53年と昭和60年には京都大学音楽部交響楽団との合同演奏を行った。
 さらに、5月31日の開学記念日に行われていた開学記念祭に参加し、合唱団とも合同演奏を行った。第17回定演(S34)は、開学記念祭と一括して行い、ハイドンのオラトリオ「天変地異」を演奏した。その後も第19回定演(S35)、第22回定演(S37)も同様の形態で演奏会を行った。

山下成太郎氏と金大フィル

 昭和37年、東京芸術大学作曲家出身の山下成太郎氏が金沢大学に赴任し、金大フィルの常任指揮者に赴任した。氏は音楽的にも確実なものを持っており、あくまでも音楽の流れに主体を置く指揮者であった。指導者としては技術的な指導をするというよりむしろ、音楽の本質的なものを金大フィルに教えてくれたのではないだろうか。氏には学生オケだからといった甘えはなく、金大フィルがそれに充分こたえたかどうかは別として、氏自身の音楽を強く要求したようである。この山下氏の音楽に対する情熱と強引さが団員の信頼につながり、「成ちゃん」と親しく呼ばせるものとなったのであろう。氏の金大フィルにおける処女演奏は、第22回(S37)のシューベルト第8番「未完成」に始まっている。
 山下氏は、第25回定演(S39)を境に一時指揮を退いており、この間、浅地修氏と遠藤知憲(S41卒、Ob)が指揮台に上がった。浅地氏はトランペットを専攻しており、金沢の管弦楽器活動として見逃せない存在である。第26回定演(S40)には浅地氏の独奏、遠藤氏の指揮でハイドンのトランペット協奏曲を演奏した。
 第29回定演(S43)で金大フィルは再び山下氏の迎え、ドボルザーク第9番「新世界より」に取り組んだ。この頃、金大フィルは編成において室内的な古典からコンサートホールのロマン派或いはそれ以降へと成長した。プログラムも序曲―組曲(協奏曲)―交響曲と充実したものになっている。さらに、定演の会場が、旧理学部講堂、栄光館、北国講堂から金沢市観光会館に移ったのもこの頃である。
 昭和40年ころから、それまでオーケストラの演奏会が開かれることなどほとんどなかった能登地方へ、演奏旅行に出かけるようになった。旅行先も能登地方にとどまらず、加賀m小松、さらには福井へと広がっている。
 昭和44年は創立20周年にあたり、定演もちょうど30回を迎えた。この定演には誰にも親しみやすく、かつ勇気づけられるものとして、過去30回のしめくくりとして(プログラムより引用)ベートーヴェン第3番「英雄」が取りあげられた。折しも、大学立法問題の嵐が吹き荒れ、金大学内も騒然とした。オーケストラにもこの問題が波及し、活動できないような状況が続いたが、連日、討議を行い、音を絶やすべきではないと結論され、活動が続けられた。
 山下氏との共演は、第31回定演(S45)、第32回定演(S46)で黄金期を築いた。第31回定演のベートーヴェン第7番は、曲の持つリズムの熱狂とオーケストラの情熱が混然となった感動的な演奏であったといわれている。第32回定演には、念願のブラームス第1番に取り組んだ。当時のコンサートマスター大峡夫氏(S49卒、Vn)のソロで第2楽章を飾り、多くのOB、賛助が駆けつけ70名に及ぶ編成での演奏であった。この時、オープニングにもブラームスの「悲劇的序曲」をおき、夏から冬にかけてブラームス一色の半年間であったといえよう。この定演のプログラムに山下氏はこう述べている。
……「ブラ1」をここでフィルが演奏することにどんな意義があるか。そのことは22年の定演史をひもとくと明白になるのである。というのは金大フィル22年の定年の中で、ブラームスの交響曲を演奏したことは1回もないからである。(中略)この22年間金大フィルに在籍した多くの人は、その間に一度は定演にブラームスの交響曲と考え、夢みたといってもよいであろう。だから、今宵はそのような意味をこめ「夢」をこめてのブラームスの、そして「ブラ1」の初演の日なのである。……
こうして金大フィルは、ブラームスの交響曲演奏という実績をつくった。しかし、翌第33回定演(S47)に、再び、ブラームスの交響曲を取りあげる。第1番に続き、第2番を演奏したのである。山下氏は「ブラ1」と「ブラ2」をベートーヴェンの「ワルトシュタイン」と「情熱」との関係にたとえ、その意向を作曲家らしく述べている。「ブラ2」は金大フィルのブラームスに対する新鮮さはやや薄れていたとはいえ、のどかな「花の園」(山下氏談)のように演奏された。
 こうして、質、量共に増してきた金大フィルであるが、OBの賛助、各方面からの客演を迎えて大曲に取り組むといった、オーケストラの肥大化は学生オーケストラとしての素朴な疑問を生み出すことになった。「学生自身のみで個性ある良い演奏はできないだろか。」これは、金大フィルの未来に対する課題として討議され、金大フィルは新たな方向へと向かうことになった。
 しかし、「新世界」から「ブラ2」に至る間は、それまでの金大フィルの流れを山下氏との共演は、金大フィルの歴史において重要なページを成すものであったといえよう。

独自の演奏を

 昭和48年、金大フィルは、団員80数名となり、一つの社会を形成するようになり、対外的にも組織なくしては身動きが取れなくなって来た。そこで、藤島秀敏氏(S48卒、Fl)とm当時の団長、岩佐純巨氏(S51卒、Fg)が中心となり、規則、組織に関する基盤をつくった。現在でも、ほぼこれにならっているが、主に以下のようなものであった。内政、外政他総括的な事を受けもつ団長の下に執行部。指揮者を含み、音楽、練習面に責任をもつPL(パートリーダー)会議。最高議決機関である総会。など、それらの役割と正確がほぼ明確化された。また、現在では廃止されているが、昭和49年には音楽監督がおかれた。
 昭和48年、執行部、PL会議は、″エキストラを呼ばない定演″を目標に活動を開始した。山下氏を顧問とし、団員の中から藤島氏を正指揮者、竹内正士氏を副指揮者として選出した。そして、第34回定演(S48)には、客演なしというハンディを抱えながら、シューマン第4番を取りあげた。藤島氏の指揮の下、現役学生のみによる編成(弦6、6,5,4,2)でどのように表現されたのであろうか。エキストラを加えて、金大フィル自体の音は多少薄れても、曲の持つ重量感を求めることが、音楽に対する正しい姿勢であろうか、それとも、大学サークルという立場にかえり、あくまで学生だけでも金大フィルの音楽をつくるべきか。どちらも正論であり、それ故大きなジレンマもあるが、その年、金大フィルは後者をとった。25周年を迎えた昭和49年、第35回定演では、20周年を祝った第30回定演と同じく、ベートーヴェン第3番「英雄」を演奏した。この年に国立音楽大卒業後、ウィーンで指揮法を学び帰国した、本田敏良氏を音楽監督に迎えた。また、学生指揮者の竹内氏、河原啓一氏(S51卒、Tp)の指揮で文字通り学生だけの演奏会であった第1回サマーコンサート(以下「サマコン」と略す。)を行ったのもこの年である。
 この2年で金大フィルの体制は大きく変わり、以後、学生だけのオーケストラとして成長していく。編成においても二管編成のフルオーケストラとして整い、第36回定演(S50)には、OBとなった藤島氏を客演指揮者として迎え、ドボルザーク第8番を演奏した。
 独自の運営、独自の演奏の基礎を築きあげた金大フィル。こうした中で、団員の願いとして「プロ指揮者の下で演奏したい」という強い意識が生まれてきた。こうして金大フィルは新たな局面を迎える。

プロ指揮を迎えての10年

 そして、第37定演(S52)に伴有雄氏という、願ってもない指揮者を迎えることができた。不安と期待を持って迎えたプロの指揮者、当時の人はどのように感じたのであろうか。続く第38回定演(S52)には藤島氏の指揮で、学生オーケストラでは至難と言われたブルックナー第4番「ロマンティック」をとりあげた。北陸初演であった。
 第39回定演(S54)には佐藤功太郎氏を迎えブラームスの交響曲第4番を演奏した。この頃、団員も100人を超える大所帯となった。続く第40回定演(S54)、再び佐藤功太郎を招き、30周年のこの年、初めてチャイコフスキーの交響曲をとりあげた。
 以後、定演ではプロ指揮が定着し、第41回定演には石丸寛氏、第42~第44回定演には堤俊作氏、第45、46定演には末廣誠氏、第47~49回定演には金洪才(キム・ホンジェ)氏を客演指揮に招いた。
 第41回定演(S56)には石丸氏の指揮によりシベリウス第2番を演奏、シベリウスの交響曲をとりあげたのはこれが初めてである。第43回定演(S58)には堤氏の指揮でマーラー第1番「巨人」、第45回定演(S60)には末廣氏によるブルックナー第4番「ロマンティック」、第47回定演(S62)には金氏の指揮でベルリオーズ「幻想交響曲」がそれぞれ演奏された。これらはほとんど取りあげられることのなかった曲であり、様々な大曲に挑戦しているということがこの頃の特徴としてあげられる。
 第28回定演(S42)以来、定演のプログラムにあがることのなかった協奏曲が、約10年ぶりに登場したのは、第3回サマコン(S52)のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲であった。独奏者には相野秋子女史を招いた。以後、協奏曲が約2年おきに登場している。最近では、第45回定演(S60)に、米田ゆり女史を招いて、グリーグのピアノ協奏曲を演奏した。
 さらに、サマーコンサートが大きな行事として定着し、第5回以降はすべて学生指揮者の手によって行われている。サマコンでは、ドボルザーク第8番、第9番「新世界より」、ベートーヴェン第3番「英雄」、第5番が主なレパートリーになっている。また、第5回サマコン(S55)のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、第11回サマコン(S61)のブラームスのヴァイオリン協奏曲では、さらに、第6回サマコン(S56)ではメインにブラームス第1番を取りあげるなど、形式、内容ともに充実したものになってきている。
 昭和55年には、宮崎理恵女史(S58卒、Vn)が金大フィル初のコンサートミストレスとなった。女性団員の数も増え、近年では、毎年、女性PLが登場するなど、女性の活躍が目ざましい。
 そして、第50回記念定期演奏会(H2)、客演指揮に再び、堤俊作氏を迎え、マーラー第5番を演奏、第3楽章は、当時の団長でもあった澤田豊伸氏(在団中、Hn)のソロで飾った。さらに、独奏者に尾花氏、店村眞積氏(読売日本交響楽団ソロヴィオラ奏者)を迎えてのモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲を演奏した。
 オープニングのエルガー「威風堂々第1番」には、3年ぶりに弦楽器初心者の1年生が出演し、総勢90名以上による大編成の演奏となった。この定演は、多くの聴衆を集め、形式、内容ともに、金大フィル創設以後40年、50回の定期演奏会の総決算ともいうべき演奏会であったといえよう。

角間キャンパスへ大移動

 51回定演以後も、団員数は順調に推移し、演奏する曲も大編成の曲が目立ち、52回には堀俊輔氏指揮でブルックナー交響曲第7番、54回には小松一彦氏指揮でラフマニノフ交響曲第2番を演奏している。
平成6年、金沢大学の長きにわたり親しまれた城内キャンパスから角間キャンパスへの移転に伴い、金大フィルの部室も角間キャンパスの課外活動施設に大移動することになった。城内の練習環境に比べると角間の課外活動施設は練習場が狭く、しかも他団体と共用を余儀なくされるというあまり良い環境とは言えなかった。その後、大学会館の設備等により、若干練習環境は改善されている。しかし、角間キャンパスは都心からかなり離れた山の中にあり、バスは9時過ぎには終了してしまうので、自家用車を持っていない限り自由な移動は困難で、夜通し練習する音が聴こえていたという話は語り草になってしまった感がある。さらに、工学部、医学部、薬学部は従来の場所にあるため専門課程に進んでからの移動が困難で、理系の団員が減少するという現象が生じている。さらに、多くの資料が移動の際に紛失してしまったのは非常に残念である。

念願の第9演奏

 角間へ移動し、慣れない練習環境にも慣れ、落ち着きを取り戻しつつあった平成7年の第56回では、久しぶりに金洪才氏を迎え、シベリウスの交響曲第1番を演奏した。そして平成9年の第58回は、同じく金氏を迎えてベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」を演奏した。学生だけで第9を演奏するのは技術的にも経済的にも困難とされたが、「唱合唱団」という特別な合唱団が金大フィルのために組織され、金氏の指導とPL陣の努力で技術的課題を克服し、本番は近年まれにみる観客を動員し、演奏会は大成功となった。合唱団は小編成ながら大きな歌声で観客を魅了した。このときのコンサートマスターは初心者で入団した荒木来太氏であった。

60回定演へ

 59回定期演奏会は金大フィルでは初めてとなる磯部省吾氏を迎え、ブラームスの交響曲第4番と、NHK交響楽団コンサートマスターの篠崎史紀氏のソロによりブルッフのヴァイオリン協奏曲ト短調を演奏した。この演奏会で特徴的だったのは磯部氏の紹介により、録音エンジニアが呼ばれ、本番ステージには見慣れないマイクが林立した。
 そして平成12年1月、第60回定期演奏会が行われた。奇しくも20世紀最後の金大フィルの定演である。指揮は40回定期でもご指導いただいた佐藤功太郎氏を20年振りに迎え、マーラーの交響曲第1番「巨人」、シューベルトのロザムンデ序曲を演奏した。本番は本学合唱団定演と同日開催というハンディももろともせず、大勢の観客を動員し、4楽章のフィナーレでは猛烈な盛り上がりを見せた。なお、この演奏会では団員の総意により多数のエキストラが呼ばれた。しかしこれは60回定演だからこだわった訳ではなく、あくまで「マーラーをやりたい」という強い意志から生まれたものである。

21世紀へ

 大学独立行政法人化、課外活動支援予算の削減など、大学を中心とした社会の動きは決して先行きの明るいものとはいえない。しかし、そんなことで挫折する金大フィルではない。時代の変化に柔軟に対応し、これからも金沢の音楽史に輝かしい足跡を遺していくだろう。

(金沢大学フィルハーモニー管弦楽団50周年記念誌より)